説明
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刀の出来で購入される方におすすめする一振りです。
本刀は気品と品格あり、覇気に加え落ち着いた雰囲気を醸し出す、古名刀独特の重厚な存在感を漂わせます。
しかしながら極めについては各会見解分かれる鑑定難の結果となってしまいました。(すっきりしないため売れ行き次第で重要研ぎを施し再度チャレンジも検討しております)
時代推測については鞘書き極めの則重で見れば鎌倉末期頃、協会、保存会の見解では室町初期(応永頃)となりました。
体配で見ると南北朝時代付近であり、刀剣学上では時代の境目で急な変化はないとされておりますので南北朝の前で見れば鎌倉、後でみれば室町初期となります。
このあたりの時代に絞り、作風から鑑定していき見解が分かれたと見受けられます。
このような極めが難しい刀は特に研磨で鑑定に変化することがありますので、重要研ぎを施せば、しっかりと絞られる可能性が高いです。
以下は見解がそれぞれ分かれました極めについて簡単なご説明をさせていただきます。
青江長次について
長次は備中青江派最後の刀工で、現存する作は少なく、その中で文和年紀と応永年紀のものが残されております。
作風は穏やかな直刃、あるいは華やかな丁子乱れを焼くが、南北朝前期の青江とは異なり、逆丁子にならない点に特色があると言われる。
青江派の刀に「にっかり青江」として有名な話があるので記載します。
にっかり青江について
Wikipediaから引用
南北朝時代に備中青江派によって作られた刀である。青江派は平安時代末期から南北朝時代にかけて備中国で活躍した刀工集団であり、主な刀工には天下五剣の一つである数珠丸を鍛えた恒次がいる。にっかり青江は青江派の時代区分のうち中青江(ちゅうあおえ)に分類されており、青江貞次によって作られたものとされている。にっかり青江の名前の由来は、ある武士が夜道を歩いていた際に、にっかり笑う女の幽霊を切り捨てて、翌朝確認をしたら石塔が真っ二つになっていたという伝説による。斬ったとされる武士は、中島修理太夫・九理太夫兄弟、浅野長政の家臣など諸説がある。この武士から柴田勝家に所有が移り、子の柴田勝敏に譲られた。さらに勝敏を討った丹羽長秀から豊臣秀吉に献上され、子の豊臣秀頼から大坂冬の陣の和議の礼として京極忠高に与えられたと考えられる。
Wikipediaから引用終わり
越中国則重について
越中則重は 刀剣要覧、日本刀工辞典の位でそれぞれ一番上の一位と最上作の刀工となります。
越中国婦負郡呉服の住と伝えらえ、「呉服郷」と呼称があり、室町時代の刀剣の喜阿弥本では新藤五国光門下説と江戸期の刀剣書の古今銘尽の正宗十哲説有り。
作風は行光・正宗に類似するといわれ、鍛肌に特色があり、大板目が肌立ちて地景が太く頻りに入り、「松皮肌」と称せられる同工独特の肌といわれている。
古伝書では「鉄ごしらえの上手なり、肌は一体ならず」と評している。
また他の特色として黒味をおびたものが多いといわれており、これは安綱をはじめとする古伯耆物の作柄を参考にしたと思われる風情のものか、古色があるといわれております。
宇多国宗について
古くの呼び名は宇津とも呼ばれておりました。
鎌倉時代末期の文保頃に、大和国宇陀郡から古入道国光が越中に移住して宇多派の祖となります。
国宗は国光の子で、国房の弟、同名数代続きます。
初代国房は則重に相州伝を学んだとされており、大和伝に、硬軟の鋼を組み合わせた松皮肌鍛と沸本位の活気ある湾れ刃の焼き入れ技法を採り入れており、南北朝時代の相州伝全盛期を代表する鍛冶で知られる。
宇多の作風は硬軟の鉄を組み合わせたという則重に酷似した出来が存在し、地沸が厚く付き、地景が激しく表れ鍛上げられた鉄味を生かした肌目の良く目立つ作が多いと言われる。
無銘の極めについて
江(郷)と則重は作風がかなり似ていると言われております。
鑑定で有名な本阿弥家の極めでは五月雨江(さみだれごう) と鑑定したものは元は宇多極めであったと言われ、 同じ本阿弥家でも刀剣研磨により鑑定の極めに変化があったことが示されおります。
このような鑑定例が存在するため、江、則重、宇多で繋がってしまうのも無理はないのかもしれません。
よって最上研磨を施せば、江に極まる可能性も0ではなく、そうなると重要刀剣は簡単に狙えることでしょう。
知っている人ほど夢ある一振りなのでございます。
売れ行き、資金状況により、弊社で最上研磨を施し、出世を計画中です。
それくらい手間をかけてもよい出来の良い御刀です。